最中屋の若旦那が駅弁を始めた話

明治時代、ある地方都市の老舗の最中屋の話。
江戸時代中ごろから最中一筋でやってきたが、西洋菓子の流行により、売り上げは細る一方。
そこで、若旦那は鉄道網の発達に目を付け、駅弁を始めることにした。
「紅葉弁当」の名で売り出し、彩り豊かなその弁当は旅人たちの間で好評を博した。
若旦那はスーツを着て、あちらこちらの主要駅に売り込みに出かける日々。
そのうち、弁当の売り上げが最中の2倍になり、一度傾いた経営も安定してきた。
しかし、最中よりも弁当を作らされるようになり、本業の最中が疎かになっていくのを感じた職人たちは次々と辞めていく。
ついには、一番昔から働いていて、若旦那が最も信頼を寄せていた職人もいなくなってしまった。
若旦那は目を覚まし、最中屋としての心を取り戻したが、時は既に遅く、廃業することになった。

その後、元若旦那は写真屋を始めた。
地元のマグロの水揚げを撮った写真が、東京の展覧会で入賞して、写真家として有名になった。
それまでは写真というと人物や近代建築の建物ばの写真ばかりだったため、彼の元最中屋としての写真撮影の切り口は新鮮だった。
大阪の新聞社に引き抜かれた彼は、日本各地を鉄道で巡り、その土地の名産品や地場産業の写真を撮ってきては、記事を書く新聞記者兼写真家に転身した。

※この記事はフィクションです

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